アフリカ大陸の3分の1を占めるサハラ砂漠は、時代によってその様相が大きく異なり、そこへ住む人類の生活環境に絶大な影響を与えた。2万年前から1万年前の乾燥期には南方に大きく拡大し、熱帯雨林地帯が殆ど消失するまでの規模になっていたし、1万年前から5000年前ごろの湿潤期には逆に砂漠地帯がステップ化するなどし、前述の「緑のサハラ」と呼ばれる時代もあった[17]。そして以降はほぼ現在と同じ砂漠化した不毛な大地が広がる地域となった。
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岩壁画サハラ砂漠地域に人類が定着した歴史はかなり古くから存在[18]するが、ラクダを使用した砂漠の横断が行われ始めるのは紀元前後で、それまではサハラ南部と地中海側の砂漠化した地帯を越えての交易は行われていなかったと考えられている[19]。サハラには紀元前3000年ごろよりベルベル人が居住していたが、紀元前8世紀ごろより、フェニキア人によって建国されたカルタゴによって北アフリカ沿岸一帯が支配下に組み込まれるようになる。紀元前146年、ローマ帝国によりカルタゴが攻め落とされると支配下地域はさらに南下し、ローマの属州として分割統治がなされた。この頃、ディアスポラと呼ばれるユダヤ人も多数北アフリカへ定着し始めたが、118年のキレナイカでの反乱をきっかけにローマ帝国による厳しい弾圧がなされるようになると、サハラ奥地へ移住していった。
7世紀後半になり、地中海沿岸がオスマン帝国の支配下に組み込まれるようになった頃、サハラを越えた南北の交易が活性化していった。これらの交易はマグリブ地域においてベルベル人によって建国されたアグラブ朝、イドリース朝、ルスタム朝などの王朝の主導によって行われていたと見られている。しかし、11世紀中ごろ、ムラービト朝が興り、サハラ交易の主導権を獲得した。
ナイル川水界
ナイル川水界
ナイル川
メロエのピラミッド上空写真ナイル川はザイールとウガンダの国境から流れ出る白ナイルとエチオピアのタナ湖から流れ出る青ナイルから成り、エジプトへと流れるアフリカ大陸で最長の大河である。河口には世界四大文明のひとつであるエジプト文明が興った。詳細については古代エジプト、エジプトの歴史および各王朝の記事を参照されたい。
エジプト中王国の時代に入り、ようやくエジプトの記録に、エジプト文明とは異なるクシと呼ばれる人々によるアフリカの王国、ケルマないしケリーマ王国[20]についての言及がなされている。ケルマ王国は、アフリカ最初の黒人王国[21]と言われ、そのピークはエジプト第2中間期頃とされる。発掘調査によって、数千基に及ぶ墳丘墓が集まった墓地とデフファ(deffufa)と呼ばれる巨大な日干し煉瓦の塔のような遺構が二つ確認された。墳丘墓のなかには、直径91mに達するものがあり、300~400人近いいけにえが墓の主のためにささげられたと考えられている。東側のデフファは、墓地の中にあり、礼拝堂のようなものであったと考えられ、西側のデフファは、交易に伴う集荷場と加工製品を作る工房か交易をつかさどる監視所のような役割を持っていたと推察される。西側のデフファの近くには都市的ともいえる住居遺構の集中がみられた。ケルマ王国はエジプト王朝と同盟関係を結び、その文化と技術を吸収していった。しかしエジプト新王国が樹立するとその支配下に組み込まれてしまい、トトメス1世の時代には滅亡してしまう。
紀元前900年ごろにナイル上流のナパタに興ったクシュ王国[22]がエジプト第22王朝、エジプト第23王朝を滅ぼし、エジプト第25王朝を開く[23]。しかしアッシリアの侵攻に遭い、紀元前656年に滅亡、ナパタへと引き上げていった。ナパタにあるジュベル・バルカル、エル・クル、ヌリ、サナムには、墓地と神殿が築かれた。特にジュベル・バルカルには、ラムセス二世が築いたアモン神殿がありクシュ王国の精神的なよりどころとなった。ナパタにあるクシュの「王墓」は、小さなピラミッドで覆われる特徴があり、ミイラを作る習慣もあった。都市と呼べるような大規模な集落跡があるとすればサナムであるがそれを想起させるような遺構は発見されていない。その後クシュ王国は首都をナパタからさらに南のメロエへ移動させ、そこへメロエ王朝を造り上げた。
メロエでは太陽神アメンをはじめとするエジプトの神々とライオン神アペデマクなどの地域の神々を融合した宗教観念を持ち、エジプト文字を改変したメロエ文字を使用するなど、独自の文化を築き上げていった。クシュ王国がメロエへ遷都した理由として、農耕や牧畜を行える広い土地があり、製鉄を行うのに必要な燃料を確保できる森林があったこと、紅海とエチオピア高原、はるか西方のチャド湖をつなぐ交易の要衝であったこと、エジプトから政治的文化的に独立し、影響力を断ち切るのに都合がよいことなどの要素があったと考えられている。メロエは、1km×750mの範囲に広がり、内部を石壁で方形に区切り、その区画ひとつひとつに外面を焼き締めた煉瓦で覆った日干し煉瓦の壁を複雑に入り組ませていた。研究者たちが、「ローマ浴場」と呼ぶような凝ったレリーフを施し、井戸から水を引く煉瓦を敷き詰めたプールの遺構も確認されており、憩いの場としての浴場が造れるほどの余裕があったことを示している。
メロエの西南西100kmほど上流にワド・ベン・ナカで相当規模の街と王宮、神殿があったことが確認されている。ワド・ベン・ナカの王宮は、50m×50mの正方形をしている少なくとも二階建ての建物で、真南に入口があり、砂岩でできた列柱の間がエントランスとして設けられている。壁は日干し煉瓦を焼き締め煉瓦でおおい表面を白い漆喰で塗っていた。上の階はほとんど失われていたため、その性格について正確なところはわからないが、下の階は、貯蔵施設で壺がおかれた部屋や、象牙や木材がおかれた部屋などがあった。また、やはりワド・ベン・ナカの南東、メロエから南西100kmほどの地点にあるナカ遺跡では、二ヶ所の広大な墓地と七つの石造りの神殿を伴う大規模な街があったことが確認されている。神殿のうちナカマタニとアマニテレのライオン神殿の外面レリーフには、エジプト風に横を向いて剣を振りかざし、捕虜の髪をつかむアマニテレ女王の姿が刻まれていて、メロエ王朝の権力の大きさと繁栄ぶりを描いている。
メロエ王朝の遺跡からは、エジプトだけでなくギリシアやローマとの影響、交流があったこともうかがわれ、製鉄技術をアフリカ南部へ伝播する役目を担っていたとも言われている。しかしエチオピア北部に興ったアクスム王国によって4世紀頃に滅亡させられてしまう。
メロエ王朝崩壊後、4世紀頃にナイル川流域にヌビア人によってノバティア王国、マクリア王国、アルワ王国という3つのキリスト教王国が作られた。これらのキリスト教の浸透は1000年の長きに渡って続いたが、641年ごろより侵攻をはじめたイスラム教に徐々に駆逐されていき、この地域からキリスト教は消滅する事になる。そして13世紀後半にマムルーク朝との戦争に敗れたマクリアはエジプトの支配下へ、ノバティア、アルワは15世紀にイスラム教徒によって滅ぼされた。
そして15世紀に入ると紅海沿岸を発祥とするフンジ王国が設立、青ナイル流域にまで勢力を拡大していった。15世紀後半にはダルフールの山地にダルフール王国が築かれる。ともに19世紀まで存続していったが、ムハンマド・アリー朝によって滅亡させられてしまう。
エチオピア高原、アフリカの角地域
アクスム市にあるエザナ王の石柱。高さ23mに達する。一方、エチオピア高原へ目を向けると、この地にアクスム王国という国家が1世紀頃に設立されている。イエメン地方から紅海を渡り移住してきたセム語族が築いた王国で、アラビア文化を継承しつつ、独自の文化を育んでいった。4世紀にメロエ王朝を滅ぼしたエザナ王はコプト教を国教とし、ギリシャ、ローマ帝国、そしてそれを受け継いだ東ローマ帝国との港湾都市アドゥリスを通じた紅海貿易で繁栄した。また、コプト教は、庶民へとも浸透していったが、7世紀にアラビア半島がペルシアに支配され、周囲のイスラム化が進むと、孤立し、交易ルートを断たれたアクスム王国は衰弱の一途を辿った。
ラリベラのギョルギス聖堂。岩窟教会のひとつ。11世紀頃にやや内陸のラスタ地方からザグウェ朝が興り、世界遺産になっているラリベラの岩窟教会群が造られた。13世紀後半、アクスム王家の血筋を名乗るイクノ・アムラクがラスタ地方の南方、アムハラ、ショア地方から挙兵して、1270年、ザグウェ朝を倒し、ソロモン朝をひらいた。ソロモン朝は、交易によって結びついたアムハラとショアのキリスト教勢力とイスラム教勢力の連合体とお互いの勢力の均衡の上にのっていた。イクノ・アムラクの孫、アムデ・ション(位1314~44)の時代に遠征をおこない、タナ湖の北方のユダヤ(ファラシャ)人勢力、東方のアデン湾からアワシュ川流域に住むイスラム教勢力を支配するのに成功した。しかし、アワシュ川流域に住むイスラム教勢力は、ソロモン朝の有力な隣国であるイファトのスルタン国に接近することになったが、アムデ・ションは、イファトのスルタン、ハケディンの領内で、キリスト教徒がイスラム教徒に捕まえられて奴隷として売られた事件を口実にイファトを攻撃して、これを打ち破り、駐屯部隊を置いて支配した。イファトの属国化によって他の小スルタン国もアムデ・ションの支配下にはいることになり、ダワロとシャルハなどアムデ・ションにつく交易都市も出現した。ソロモン朝の時代には大きな都市は造られることはなかったが、これは、ソロモン朝の皇帝が移動する「宮廷」、つまり、皇帝の家族から騎兵、近衛兵、官僚たちとその家族、皇帝の一族や文官、武官たちのために教会を運営する僧侶たちをひきつれたキャンプによって国土を支配した。征服地には、全く別の場所から連れてきた言語、民族が異なる兵士からなる駐屯軍がおかれ、小さな反乱であればすぐに鎮圧し、鎮圧が困難であれば、近隣地から援軍が来る仕組みになっていた。ソロモン朝は、強大化した軍隊と富とを背景にエチオピア教会を保護したため、イスラム教徒に不満がくすぶるようになっていった。エチオピアでのイスラム教徒の自由や安全、利益を守ることを要求するマムルーク朝に対し、エジプト国内のコプト派キリスト教徒の自由や安全、利益を守ることを要求して強硬な態度をとっていた。また、ゼラ・ヤコブ(位1434~68)の時代にはヨーロッパに使節を送り、ヨーロッパ人の職人、技術者を連れ帰ることに成功した。しかし、ゼラ・ヤコブの死後、帝国の安定は息子のビイデ・マリヤム(位1468~78)の治世までしか維持されず、後継者争いで衰退の一途をたどり16世紀前半に起こったイマーム・イブン・イブラヒムによる反乱によって決定的に崩壊することになる。
キルワ・キシワニの大モスク跡一方、東アフリカ沿岸部は、古来からスワヒリの語源となる「縁」という意味のスワーヒルと呼ばれ、イスラム商人によるインド洋交易がさかんで、多くの港湾都市が繁栄したことでしられる。それを支える東アフリカのスワヒリ人たちの通常の生業は、農業と漁労であった。10世紀の著述家であるアル・マスウーディーによるとココナッツ、ヤムイモ、バナナ、アズキモロコシを栽培していたと伝えている。また15世紀のポルトガル人の著述家によると、ウシ、ヒツジ、ヤギなどを飼い、サトウキビや綿花を栽培していたことを記述している歴史家もいる。綿花については、出土品に紡錘車がみられることからも綿織物がつくられていたことがわかる。一般の人々の家は、草やヤシの葉などで屋根を葺いて壁や柱を粘土や木材でつくった家であった。これらの家が集まって村落を形成し、規模が大きくなると都市になった。[24]。 一方で、キルワにみられるように都市に住む人々のうち裕福な者は石造りの家に住み、宮殿や大モスクは、数階建ての建築物であった。漁労で得た貝殻は、さまざまな形の容器やビーズ、スプーンを作るのに用いられた。また貨幣に使用されたおびただしい量のタカラガイ(小安貝)が東アフリカ沿岸の集落、都市遺跡からは発見される。
9~10世紀ころには、マリンディのやや北方にあるマンダ島が交易の中心として繁栄していたことがわかっている。マンダ島で発見される遺物にはサーサーン朝以来の伝統をひきついだイスラム陶器[25]、13世紀に相当する元代の青磁、乾燥させた素地に顔料を混ぜた化粧土を塗って一部を掻き落とす技法を用いたスグラフィート陶器などが発見されている。 東アフリカで交易で繁栄した町として知られるのは、キルワないしキルワ・キシワニ(「キルワの島」の意)が挙げられる。10世紀から12世紀ころにイラン南西部の都市シーラーズから渡ってきたアラブ人のグループによって商業拠点が造られ、シーラーズ王朝がつくられたのがはじまりとされている。アラブ人とペルシャ人と現地の人々との混血が行われて、人種的にも文化的にも独自の発展をとげることになる。
12世紀以降、アフリカ東海岸は、ラム群島とザンジバル(古名ウングジャ)を経由し、キルワに至る交易路が形成された。キルワ・キシワニが発掘調査された結果、前述したように貨幣に用いた多量のタカラガイ、各種のイスラム陶器、ガラス製品、紅玉髄や石英を加工して作ったビーズ、マダガスカル産の凍石を加工して作った壺などが発見された。また、12世紀中葉以降、宋代の青磁を輸入するようになった。一方マリンディとモンバサは、豹の皮と鉄製品を輸出していたことで知られていた。マリンディの南方にある港町ゲディはアラブの史料には記載されていないが、黒と黄の文様がほどこされたイスラム陶器、緑釉をかけたスグラフィート陶器を輸入し、このころから繁栄していたことが考古学的調査で判明している。
アラブの歴史家ヤークート・ビン・アブダラー・ハマウィーは、13世紀のモガディシュについて、東アフリカでもっとも著名な都市のひとつであること、住民がイスラム教を信仰するアラブ人で、混血の人々もいること、彼らが複数のコミュニティをつくって生活していることを述べている。当時のモガディシュは、黒檀、白檀、象牙などを輸出していた。ヤークートは、キルワについて現在では知ることのできる最古の記録[26]を残していることでも知られる。彼の記録によるとキルワは島ではなく沿岸に築かれた街であること、またザンジバル島についてもラングジャ・ウングジャという名で記述しており、独立した国家があって交易の中心都市として繁栄し多くの船が寄港していた様子についてのべている。このことは、先述したポルトガル人歴史家がキルワについて多くの大型船が寄港していたこと、その大きさは50トンのキャラベルと呼ばれる大型の帆船にも決して引けを取らない立派なものであったと述べているがそのような船が200年前からアフリカ東海岸とインド洋を航行していたことを想像させる。 13世紀中葉のキルワは、サンジェ・ヤ・カティ島の島民と考えられているジャンガとの抗争の末、これに勝利し14世紀初頭になって、アブル・マワーヒブ王朝のもとで大きく発展を遂げた。多量のスグラフィート陶器、宋代の青磁を含む磁器、浮彫文様が施された香料などを入れる瓶や巻き玉や管玉などのビーズ類に代表される多量のガラス製品がこの時期に輸入されていることがその繁栄を物語っている。ゲディでは、キルワと同様なイラク、イラン産のイスラム陶器、浮彫文様が施された香料などを入れる瓶などのガラス製品が輸入されている。
14世紀のアフリカ東海岸の様子については、イブン・バットゥータによってモガディシュが交易の中心地であって、商人たちは、モガディシュの住民たちの中から信用できる人物を代理人として選び、交易に伴う取引の仕事を任せるようになったと記述されている。またバットゥータが1331年にキルワを訪れた際、人口は1万2千人に達したこと、キルワのスルタン(王)は、海岸沿いの断崖に宮殿を築いていて「アブ・アル・マハウィーブ」(贈り物をする父)と呼ばれていたことを記録している。キルワでは、この時期中国産の陶磁器の輸入量がイスラム陶器を大きく上回るようになった。イスラム陶器のうち主要なものを挙げると、アデン産と考えられるつや消しの行われた黄色い釉薬をかけた黒色文の粗製陶器が主体であった。ゲディでは青緑釉のラスター彩陶器が輸入され始め、ガラス製管玉、巻玉のビーズと赤い胎土の球形ないし円筒形のビーズは輸入され続ける。14世紀の後半には、明るい緑色釉をほどこし、厚手で球状を呈したイスラム単彩陶の最古段階のものが見られるようになる。中国産の陶磁器のうち主なものは、福建省の龍泉窯産の青磁連弁文碗、磁州窯産などの白地黒掻き落としなどが代表的なものであった。
15世紀は、キルワが、支配階層の抗争によってゆっくり衰退する時期と考えられているが、輸入陶磁器の量は増えている。イスラム単彩陶は、緑から青緑色のものであり、中国産の陶磁器は、青磁や青白磁が主体で、ビーズはほとんどが赤い管玉になっている。輸出品は、金、犀角、奴隷、象牙、真珠、貝殻類であり、東海岸の北部では豹皮を輸出する街もあった。ゲディは、明の青花と白釉と青釉のラスター彩陶器を輸入していたことがわかっている。